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山形情報ガイド・んだ!ブログ

2014年03月11日

開き直る

酒田市役所で避難訓練っぽいことがあったらしく、国道7号の交差点には制服の警官が旗を持って立っていた。正しくは、立たされていた。

ラジオでは震災後の現地の活動や思い出などがリスナーのメッセージを交えて伝えられる。

メディアで大震災を取り上げる場合、あの時の重大な危機を乗り切ったかのような印象を与える内容が多い。まだ復興は終わってないと付け加えることもあるし、実際に復興が進んでいると実感できるケースもあるだろう。当事者とは言えない私としては被害者に黙祷を捧げ、冥福を祈るのみ。





あのスケールの災害がこの身に降りかかることを想像すると身震いしてしまう。



家族を守り切れるだろうか?



「?」ではなく、守らなければならないのだ。守り切らなければ。



家族の命を守ることを最優先にするということは、言い換えれば他人の命よりも家族の命のほうが尊いということになるかもしれない。天は人の上に人は作らないが、選ばれし者にのみ命を授けられた。



究極に追い詰められた状況に置かれた自分を想像すると、決断する責任を負わねばならない。

家族のために自分が犠牲になることは覚悟しているつもりだが、家族を守るために他人を死に追いやることになる可能性を否定できない。

大災害時に難を逃れ、「一時的に生きてる」人間全員が救われるという保証はないことは震災の記録から現実として認識出来る。



大災害が起きた時、家族と自分が助かりそうで、見ず知らずの人が目の前で死ぬかもしれない状況も想定出来る。死にかけた他人を助けて自分が死ぬことは考えられない。そんなことはありえない。他人の命を救うためには、まず己と己が守るべき命の保障を確保することになるが、救える命は限られている。



まったく逆の立場になれば、誰かが守ろうとする命と比較された私というのも同じ確率で存在し得る。「助かりそうな」人間は救われる。家族の誰かが犠牲にならざるを得ない状況も同じ。



どんな場合でも前向きに生きて、社会貢献したり地球の反対側の幼い命のために募金したりと体良く振る舞うことで自分の命が助かる確率が上がるのだろうか。そうした自らの手による善意に対して本当に見返りを求めていないか?世のため人のために尽くした人なら危機的状況で助かる権利があると主張できるか?



開き直って、社会との和を保ちつつ生きていくほうが理にかなっているのではないかと考えてしまう日であった。  
Posted by ニッポンのイナカ at 20:47Comments(0)